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文責拒否・MsMb/松下学

2009.3.15 log

戦時中!

−「ピカッ」を巡るふたつの公共性の衝突

なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのかなぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか
Chim↑Pom

河出書房新社 2009-03-27
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2009年10月22日、広島上空に描かれた巨大な飛行機雲のグラフィティ「ピカッ」について、公共性の観点からの記述と考察。

この騒動を扱った『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』に松下学名義で寄稿。発行者・無人島プロダクションの厚意により、全文を掲載。


軍服や爆撃のスペクタクルの興奮からちょっと身をひいて、戦争を国家による国民の総動員体制と捉え直してみれば明白なことだが、日本は今も戦時中だ。だからこそ国家祭礼特区ヒロシマの上空のわずかな間隙に描かれた「ピカッ」の三文字から瞬く間にメディア上で増殖した数十万の文字は、アートを巡る瑣末な噂話であったと同時に、今日の戦争の姿を浮き彫りにする不意の証言でもありえた。  この数十万字のつぶやきの寓意を積極的に捉えるならば、今回の騒動はふたつの異なる公共性の衝突として整理できる。それがChim↑Pomというマイクロな逸話をマクロな問題系へと接続させ、この騒動を私的な集団性の暴走を越えた関心へと繋げるひとつの回路だ。まずは総動員体制としての戦争を一瞥し、それからふたつの公共性の衝突に言葉を接ぐことで今日の戦争の核心へと迫っていこう。

言葉の心許なさに比べ写真や映像は雄弁だ。それゆえ戦争の記憶は痛ましい戦火の痕跡によって視覚的に継承されるものとなっている。だが悲惨な戦火に託される戦争の視覚的リアリティは、戦争の根本的要因である国家総動員体制という問題をそのひとつの結果である衝突の火花へと巧みに紛れ込ませてしまう。大規模な軍事産業、戦闘員としての国民徴兵、理不尽な命令への絶対服従、そのいずれもが国民国家の総動員という戦時体制なくしてはありえないものだ。戦争の根本は国家が人々の自律と自存に仕掛けた侵略であり、国家間の武力衝突よりも遥か以前に遂行されたこの戦争を語る声は今は雄弁な戦火の影に追いやられている。

この半世紀余り国民たちが動員させられている「戦後」戦争は、軍事均衡に代わり新たに権力の所在となった世界経済の覇権を巡る国家間競争である。経済はかつての軍事のように人々の過去を蹂躙し現在を拘束し未来を捻じ曲げる力を持っているけれど、「援助」や「協力」といった公用言語の下で遂行される不均等な経済間の予定された勝敗は、その暴力性を包み隠したまま何食わぬ顔で遠い戦火に戦争の是非を託してきた。だがこの戦火なき戦争は、国外での国家間競争という戦場の裏に、その競争を通じて強化される国家の突出した主体性の内部というもうひとつの戦場を隠している。外圧を用いて支配の内圧を高めていく近代国家たちの大きな物語は今も連綿と続いているのだ。

この新しい世界大戦を経済活動の政府統括による効率化で生き抜いてきた日本は、挙国一致の有効性を改めて民主主義に承認させ、戦前戦後にわたり総動員体制を保持することに成功した稀有な国家である。復興の余熱で滅私奉公の精神を焼き直し、国民皆兵を国民皆勤に書き換え、天皇に代わり経済成長を国体として護持するのが「戦後」の新たな総動員体制だ。その内部では国家意志が家庭、学校、都市などの国家と人々の中間にある社会に浸透し、国益は人格、制度、空間などの単一の構成原理として国民国家を貫いていく。総動員体制はこうして領土内の中間社会の対抗性を解体し、様々な共同体を国家意思の下に馴致させることで国家と国民を直線で結び、単一の運命共同体として人々の生存と連帯の可能性を根元的に独占する国民国家を構築する。そして国民国家というひとつの生命は国民という人質を腕に抱き、ときに激しくときにゆるやかにその鼓動を響かせていく。

無力化、服従、命令待機。これらが戦火が本土化するまで人々を捕らえていた紛れもない戦争体験であり、戦火のない今日の「平和」においても国家と国民の間で起きていることだ。戦争は何よりもまず自主性の喪失として現れ、その喪失へ叩き込まれる国家号令が戦火や「平和」を生み出していく。改めて強調していいだろう、戦火の不在においてなお日本は今も戦時中、それも近代日本の発足以来百年を越える長い長い敗戦の最中にある。

戦争が国民国家という総動員体制ならば、戦争は公共性という人々を媒介する働きの国家による独占とも言い換えられる。国民国家における公共性は第一に国という単位であり、国に関わるとされる事案が公共の関心としてその内部を浸していく。この公共性は、マスメディアを媒介として同じ情報を同時に消費する見知らぬ人々同士の間に生まれる連帯感の境界領域、つまり共に同じであるという期待がもたらす想像の共同体である。たとえば新聞とテレビを日々眺めていると漠然と現れてくる日本という国家社会がその象徴に挙げられる。しかしこの共同体の公共性の底にはもうひとつの異なる公共性が横たわっている。共同体とは別のやりかたで人々を媒介するこのもうひとつの公共性が、何らかの刺激によって活性化した対話が人々の間に結ぶ自発的なつながりだ。たとえば偉大な芸術作品が巻き起こす議論の渦、あるいはより卑近で現実的な例として火事場の野次馬やエロい噂話を挙げてもいい。

共同体と自発的なつながり、このふたつの公共性の違いを強調するなら、繰り返し維持されるものと常に新たに創出されるもの、同一性の上に成り立つものと差異の間に生じうるもの、人々に間接的に介入するものと人々を直接結びつけるもの、静的なものと動的なもの、あるいは上から与えられるものと下から築きあげるものに分けるのがわかりやすいだろう。近代史は人々の自発的なつながりが共同体に再編されていく歴史であり、国家はその歴史の果てに残された最大の共同体である。そのため国民国家の内部では人々が新たに創り出す自発的なつながりとしての公共性は忘却されたまま、国を頂点とする様々な共同体たちの既存の公共性だけが人々を媒介していく。

広島の上空に「ピカッ」の三文字を描いたChim↑Pomが試みたのは、それを刺激として人々の間に議論を喚起すること、つまり戦争と平和という主題を核とする自発的なつながりを創出することだった。人々を水平に媒介するこの公共性は、意見の相違を苗床に雑草のように生い茂り、共同体の定められた境界に亀裂を生じさせる。しかし彼らの作り出した刺激が自ずと議論の波紋を広げるよりも早く、新聞と2ちゃんねるという表裏一体で国民的感傷を代表するふたつの共同体が一方的に結論を下し、各々の巨大な共同体をその解釈で塗り固めてしまった。共同体と人々を垂直に媒介するこの公共性は、その核となる世論・公論の統一を求め、美しい花壇から雑草を毟り取ろうとする。このふたつの相反する公共性の力学は衝突を免れない。

この衝突の狭間に働いたのが、対話を可能にさせる複数の声を一本化し合唱に変える共同体の力学だ。この一件を肴に約一週間賑わった新聞の紙面上には、「ピカッ」の多様な解釈可能性と被爆者感情を敢えて対立させることに議論の推進力を求めた初日の意欲的な報道から、「ピカッ」は被爆者の合意という正統性を欠いた迷惑アートに他ならないという結論へと雪崩込むまでの鮮やかなコントラストが描かれている。この件を巡る2ちゃんねるのスレッドは、他のニュース同様、事件の特異性を反映する言葉が次第に共同体の規範的作法へと収斂していく過程の優れたサンプルである。新聞は独裁的に手際よく憂い2ちゃんねるは民主的にだらだらと騒ぐことで各々の規範を明らかにし、道徳であれ不徳であれ規範の下に制定された公論の斉唱は対話をもたらす様々な声を掻き消していく。こうして共同体は自らの規範と結束を日々保っていくのである。

「ピカッ」が人々の間に新たに結びかけた公共性は、逸脱者という生贄に規範という槌を振り下ろす共同体の公共性の力の下にぺしゃんと鎮圧されたのだ。その後始末を与えられたアートという閉じた対抗性の共同体は、逸脱を恒例として平穏に懐柔するいつもの敏腕で生贄の絞りカスを自らの祭壇に捧げていくだろう。こうして日本という国民国家の傑作は、新聞と2ちゃんねるなどの公論機関の対立を止揚し、その取り溢しを様々な隔離場に回収させていく。この慣れた手つきで国民国家のささやかな燃料として使い捨てられた「ピカッ」は、責任問題の藪の中でもみくちゃにされた挙句、日本という島国の現代という流行のアートという円環(ルビ:サークル)のわずかな起伏へと平穏無事に押し込まれた。ほんの少し残るもどかしさも、「バスに乗り遅れるな」と尻を叩かれ日の丸バスの乗り換えに奔走させられるいつもどおりの国民生活の喧騒にいずれ揉み消されていく。

かくしてこの国の戦争と平和を象徴する祭礼特区ヒロシマを倒錯的に盗用した「ピカッ」の挑戦は、議論の余地を削ぎ落とされるという無力化を施され、逆に共同体の力学に倒錯的に盗用されたまま搾取されるという完全敗北を喫した。「ピカッ」の三文字はマスメディアの表面を蠢く数十万字の公論に埋もれ、その三文字から始まるはずの戦争と平和を巡る自発的な議論を実現することもままならず、国家規範の下に速やかに召喚されたヒロシマの被爆者という正統な話者の前に人々は沈黙を強いられた。被爆してから出直して来い平和ボケの芸術家ども。極論すればこれが国民国家のお手玉の果てに「ピカッ」に与えられた結論である。だが被爆者感情という代償を覚悟で「ピカッ」が手にしたこの敗北は、戦争と平和を巡る日本の政治の核心を描き出してもいた。

つまり、この沈黙を強いたのは被爆者自身ではなく国民国家の規範であり、沈黙を強いられたのはChim↑Pomではなく国民一般だということだ。日本の戦火を象徴するヒロシマの原爆は戦争と平和を語る声に被爆者を頂点とする序列を与え、その最大の火花の濃い影の中に昔と今の戦火なき戦争を語る声を一括して追いやっている。いつしか日本の「平和」のご意見番を押し付けられていたヒロシマの被爆者は国民国家の規範において戦争と平和を語る特権的な正統性を与えられ、それによって国民一般の戦争と平和を巡る自主的な発話を牽制する働きを否応なく与えられている。広島上空に「ピカッ」と描いて戦争と平和について勝手に口火を切った不届き者は、戦争と平和について順当に口を閉ざすべき「平和」な日本国民のアイコンとして謝罪を演じさせられたのだ。被爆してから出直して来い平和ボケの国民ども。これが「ピカッ」を好機に人々に下された大号令であり、こんな些事に国家の陰謀など関わるわけもなく、そこにはただ堂々とふるまう規範的国民の姿だけがあった。

だが、戦争と平和を語る言葉とヒロシマの被爆者の密接な関係はいずれ心中へと傾き、広島は対抗性を完全に解体された祭礼特区として国家に取り込まれ、戦火を知らない平和ボケの国民どもは平和を語るために次の戦火を待たなければならなくなる。だからこそ戦争と平和を巡っての自主的な議論を喚起するという綺麗事は綺麗事のままで終われず、被爆国家の聖地たるヒロシマの空を犯しその聖像たる被曝者を冒涜しなければならなかった。ヒロシマの神聖性に国家行政単位広島市の政治性を突きつけ、平和の使者たちと平和ボケの若者たちを対等な話者として並べ立てる暴挙は、単なる暴力を越えた特殊な刺激を生み出した。その刺激がヒロシマに一極化された戦争の痕跡を国民国家という今も続く戦争の日常へと押し広げ、被爆者の死と共に永遠に葬り去られようとする平和への欲望をしぶとく生き続ける国民どもの生活に叩き込む可能性は、未だ実現されないまま掃き捨てられた公論の底で静かに横たわっている。

かつての戦争の記憶が死に絶えようとする歴史の節目に「ピカッ」を巡って衝突したふたつの公共性が描き出したのは、戦争と平和の独占的主体となろうとする国家に対して人々が永遠に口を慎み自主性を失い続けるか否かを定める重大な戦局だった。ヒロシマの空を汚し被爆者を傷つけてはならないという公論の下に一致団結した国民たちは、戦争をしてはならないという主張の下に同じだけの確信をもって一致団結して国家と抗戦できるだろうか。もしこの問いが皮肉な響きをもたらすならばこの戦局は敗色濃厚だ。逆転を企てるなら、まずはこの戦争を想起させるにはあまりにもくだらない労働と情報と商品で組み上げられた「平和」な総動員体制から今日の戦争の姿を抉り出し、戦争と平和の他ならぬ当事者となってしまえばいい。共同体の中心から放射されるけたたましい公論瀑布の後に残る乾いた沈黙は昔も今も変わらぬ戦時国家の日常であり、その日常にこそ人々は他でもない自分自身の戦争の記憶の巨大な鉱脈を掘り当てられるはずだ。

「ピカッ」はこうしてChim↑Pomというひとつの小さな物語を越え、人々の小さな物語たちを等しく包み込む国民国家という戦争の大きな物語を語り始める。国家に独占された戦争と平和の下で沈黙を守り続ける「平和」な国民たちのこの長い長い敗戦の物語にいい加減に飽きてきたなら、「ピカッ」がそうしたようにその先を勝手に書いてしまえばいい。どこからともなくやってくる見知らぬ誰かの正しい結論を待つまでもなく、このマンネリにみんながすっかり飽き飽きしているのはもう誰の目にも明らかだろう。


参考文献:
本稿は、B・アンダーソンが国民国家を批判的に分析した想像の共同体とJ・ハーバーマスが市民社会を規範的に構想した対話的な公共圏の対比の上に、I・イリイチが近代社会を批判的に分析した根元的独占論を市場経済から政治経済の文脈に置き直して再展開している。各々の公共性モデルはB・アンダーソン『想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』白石隆・白石さや訳(1997、NTT出版)とJ・ハーバーマス『公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究―』細谷貞雄・山田正行訳(1974、未來社)に詳しい。I・イリイチの根元的独占モデルは『コンヴィヴィアリティのための道具』渡辺京二・渡辺梨佐訳(日本エディターズスクール出版部、1989)に詳しく、その戦争・平和への準用として『シャドウワーク―生活のあり方を問う』・訳(岩波書店、1982)第一章「平和とは人間の生き方」が示唆的。


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