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文責拒否・MsMb/松下学

2008.10.1 log

弱虫のハイジャック

−失敗としてのchim↑pom−


アーチスト集団・Chim↑Pomの登場と受容をめぐる考察。アートと反アートの狭間から次第にアートに傾いていくChim↑Pomは、どこへ向かうのか。Chim↑Pomのアートとしての成功は、はたして成功なのか失敗なのか。それが失敗なら、それは無意味か、あるいは何を意味するのか。

批評誌『REVIEW HOUSE 02』に松下学名義で寄稿したもの。全文の掲載はできないため、序章のみ抄録。


chim↑pomの『スーパー☆ラット』がポップカルチャーとサブカルチャーの双方に挑発を仕掛けたとき、評論がまごついている間に先んじて好意的評価を下してしまったのは一般誌やスポーツ新聞であり、次第に大きくなる騒ぎに追従したアート評論は結局は時勢におもねる中途半端な硬直性を無様にも露呈した。だが、このアートの内外双方からの言及という事態が明らかにしたもっとも重要なことは、アートの内外でそれを語る言葉に質的な差がないということである。評論のジャーゴンや流行語をどれだけ重ねても珍奇さを率直に喜ぶ週刊誌の物言いと大きく異ならないということは、読み手以上に書き手を失望させただろう。

一般メディアに先手を打たれて話題の縄張りが侵されたとき、評論の言葉は一体何にアイデンティティを求めればいいのか途方にくれてしまった。今やアートなるものは他のどの商品ジャンルよりも新しく珍しいものを消費させるニッチ市場として商品経済に取り込まれ、評論と呼ばれる小規模広告は新聞や一般誌などの大規模広告の前に存在意義を失っている。恋に仕事に忙しい働き者のアートファンのために饒舌に感動してさしあげるアルバイトに没頭していた評論の言葉は、ようやく上げた重い腰のわりに随分と軽く、大資本の暴風の前にあっけなく吹き飛んでしまった。かろうじてアートの評論として面目を保てているのは美術手帖など大部数全国誌のものだけだが、その価値を支えるのは情報の質ではなくあくまで部数という量である。

いずれも広告ならば簡潔で大規模の方がよい。ならば冗長で小規模な広告にすぎない評論がなぜまだ存在するのか、この疑問の容赦なさは評論にそれを問うことさえためらわせてきた。なぜなら、評論は自らの特権的アイデンティティのためだけにアートを消費してきたからだ。自己を差別化するため新奇なものを節操なく次から次へと消費しつづけた結果、評論は新奇性を自明な価値とする商品経済のイデオロギーへと創造行為の評価制度を一致させていった。評論よりも早く商品経済に愛されたchim↑pomはこうした評論の努力の結晶であり、商品経済イデオロギーの貫徹という大任を果たした評論は自らの手でその特権を失うこととなる。おめでとう、そしてご愁傷さま。

そんなアートの世界で全力で生き延びようとしたchim↑pomは、意図せずしてこの仕組みを評論自身の言葉によって語らしめてしまった。それが彼らの批評性であり、その攻撃の矛先は、アート全体ではなく、あくまでアートの評価制度に照準されている。そしてこの批評性は、アートというニッチ市場の中でのささやかな成功ではなく、より広範な社会的挑戦としてのchim↑pomの失敗にこそある。

……

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